結婚式や映画の場面でよく流れる「G線上のアリア」。ゆったりと歌う旋律を聴いて、ヴァイオリンの一番低い弦だけを使うために、バッハが特別に書いた曲だと思っていませんか。題名からは、そう読み取れます。
じつは、バッハはこの曲をG線のために書いていません。原曲は管弦楽組曲第3番の第2曲「エール(Air)」で、弦楽器と通奏低音のために書かれた曲です。G線だけで弾く形は、バッハの死から約120年後の1871年に、ヴァイオリニストのアウグスト・ウィルヘルミが作った編曲でした。
「G線上のアリア」:まず1分だけ
原曲は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの管弦楽組曲第3番ニ長調(BWV 1068)の第2曲です。組曲は序曲、エール、ガヴォット、ブーレ、ジーグの5つの楽章でできていて、全体ではトランペット3本、ティンパニ、オーボエ2本、弦楽器、通奏低音という編成です。ところが第2曲のエールだけは、弦楽器と通奏低音以外がすべて休みます。
作曲された時期ははっきりしません。バッハが宮廷楽長を務めたケーテン時代(1717〜1723年)に書かれたと長く信じられてきましたが、現存する最古の楽譜はその後のライプツィヒ時代のものです。現在は、ライプツィヒのコレギウム・ムジクムの演奏会のために書かれたのではないかと考えられています。
原曲とウィルヘルミ版を並べると
「G線上のアリア」という名前は、原曲ではなく、ウィルヘルミの編曲の通称です。両者を並べると、変わった点がよく分かります。
比べる点 | バッハの原曲(エール) | ウィルヘルミ版(1871年) |
|---|---|---|
編成 | 弦楽器と通奏低音 | 独奏ヴァイオリンと、弦楽器と鍵盤(ピアノまたはハーモニウム)の伴奏 |
調 | ニ長調 | ハ長調(全体を移調) |
主旋律 | 第1ヴァイオリン | 1オクターブ下げて、独奏ヴァイオリンがG線だけで弾く |
伴奏 | 各声部が旋律に絡み、低音が歩みを支える | 弱音器つきで、ごく小さな音量に抑える |
低音の弾き方 | 通奏低音が一定の歩みで進み、オクターブを跳ぶ | ピッツィカートで、終始ごく弱く |
ウィルヘルミは楽譜に「G線で」と書き込みました。ニ長調からハ長調に下げ、旋律をさらに1オクターブ下げることで、全部の音がヴァイオリンの最低弦に収まったのです。この書き込みが、曲の通称になりました。
編曲で変わったもの、失われたもの
ヴァイオリンは最低音域では大きな音を出しにくいため、ウィルヘルミ版では、伴奏のほうがぐっと小さくされました。伴奏の弦は弱音器をつけ、低音はピッツィカートで終始ごく弱く弾く指定です。そのぶん、原曲にあった声部のからみ合いや、低音の推進力は薄れました。
この編曲は広く愛され、通称だけが一人歩きしました。いまでは、原曲の管弦楽版やオルガン版を含めて、エールを「G線上のアリア」と呼んで演奏することも多くなっています。後年には、「最初からG線のために書かれた」という誤った話まで広まりました。
編曲を批判する声もあります。ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムや、音楽学者のドナルド・フランシス・トーヴィーは、バッハの意図をゆがめたものだと退けました。愛される編曲と、原曲の姿は、分けて聴く価値があります。
一段深く:低音の側から聴く原曲
テューバ奏者の私が原曲のエールを聴くときは、旋律より先に低音を追いかけます。高い弦が長い音をのびやかに歌っているあいだも、低音は歩幅をそろえて進み、ときにオクターブを跳んで動きます。旋律だけを聴いていると気づきにくいのですが、この歩みがあるから、旋律はどれだけ伸びても拍の上に立っていられます。
ウィルヘルミ版では、この低音が終始ごく弱いピッツィカートに変わりました。旋律は目立ちますが、旋律を支える地面は、聞こえるか聞こえないかの音量まで薄くなっています。同じ曲なのに印象が違うのは、旋律ではなく、低音の扱いが変わったからです。
バッハの生涯と代表曲は、バッハはなぜ「音楽の父」と呼ばれるのかで整理しています。エールは組曲の中の1曲ですが、組曲という形の聴き方はホルスト「惑星」の記事も参考になります。同じ型のくり返しが曲全体の設計になっている作品としては、ラヴェル「ボレロ」も合わせて聴き比べてみてください。
よくある質問
Q. 「G線上のアリア」はバッハが付けた題名ですか
A. いいえ。バッハの原曲の題は「エール(Air)」で、「G線上の」という通称はウィルヘルミが自分の編曲に添えた書き込みに由来します。
Q. 原曲の「エール」はどんな楽器で演奏されますか
A. 弦楽器(第1・第2ヴァイオリン、ヴィオラ)と通奏低音です。通奏低音は、チェロ、コントラバス、チェンバロなどで演奏されます。組曲のほかの楽章で活躍するトランペットやオーボエは、この楽章では休みます。
Q. 原曲を聴くなら、どこに気をつければよいですか
A. 旋律の下で歩き続ける低音を、ひとつだけ選んで追いかけてみてください。ウィルヘルミ版との違いが、いちばん分かりやすく見えてきます。
まとめ
「G線上のアリア」は、バッハの管弦楽組曲第3番の「エール」を、ウィルヘルミが1871年にG線だけで弾けるよう編曲したものの通称です。原曲は弦楽器と通奏低音のための曲で、低音が歩みを支える作りになっています。次に聴くときは、旋律のほかに、足元で進む低音にも耳を向けてみてください。同じ曲の、もうひとつの顔が聞こえてくるはずです。
この記事を書いた人
小林悠真(こばやし・ゆうま)/一般社団法人LFコンサート 代表理事/テューバ奏者。広島県三次市出身。九州大学で音響設計と音楽マネジメントを学び、デザイン思考を軸に持つ。演奏する側の実感と“音の仕組み”の両面から、「誰もが音楽にたどり着ける道筋」のリデザインに取り組む。
