バッハと聞くと、「音楽の父」という肩書きをまず思い浮かべる方は多いのではないでしょうか。教科書に太字で載っていた、あの呼び名です。私自身、子どもの頃は、バッハは生まれながらにして音楽界の頂点に君臨していた人だと思い込んでいました。
でも、テューバ奏者として現場に立つ側から見ると、この“父”という称号にはちょっとしたからくりがあります。バッハが生きていた当時、彼はヨーロッパ有数の有名人ではなく、地方の教会に雇われたひとりの職人音楽家でした。まずは、その足取りを1分だけ押さえておきましょう。
バッハとは? まず1分だけ
ヨハン・ゼバスティアン・バッハは1685年、ドイツのアイゼナハに生まれた作曲家・オルガン奏者です。複数の旋律を独立させながら重ね合わせる「対位法」という書法を極め、バロック音楽の到達点と評される存在になりました。生涯の大半を、教会や宮廷に仕える音楽家として過ごしています。ここまでは、たいていの解説に書かれているとおりです。問題は、その先の歩みにあります。
生涯を辿る:教会と宮廷を渡り歩いた47年
バッハの経歴は、就職と転職の繰り返しでした。ひとつの宮廷に腰を据えて名声を築いたイメージを持たれがちですが、実際は職務のたびに雇い主を変え、その土地ごとに求められる音楽を作り分けています。主な足取りを年表にまとめました。
年 | 場所 | 職務 | 代表作・出来事 |
|---|---|---|---|
1685年 | アイゼナハ | 誕生 | 代々音楽家を輩出したバッハ家の出身 |
1703〜1707年 | アルンシュタット | 教会オルガン奏者 | 初期のオルガン作品 |
1707〜1708年 | ミュールハウゼン | 教会オルガン奏者 | カンタータ第4番など |
1708〜1717年 | ヴァイマル | 宮廷オルガン奏者・コンサートマスター | 「トッカータとフーガ ニ短調」など多数のオルガン曲 |
1717〜1723年 | ケーテン | 宮廷楽長 | 「ブランデンブルク協奏曲」「無伴奏チェロ組曲」「平均律クラヴィーア曲集」第1巻 |
1723〜1750年 | ライプツィヒ | 聖トーマス教会 トーマスカントル(音楽監督) | 「マタイ受難曲」「ロ短調ミサ」ほか教会カンタータ約200曲 |
1750年 | ライプツィヒ | 没(65歳) | 未完のまま残された「フーガの技法」 |
この年表を見て気づくのは、バッハの肩書きが一貫して「教会または宮廷に雇われた実務家」だったことです。作曲は仕事の一部であって、独立した作曲家として名声を求めた形跡はほとんどありません。ライプツィヒでの最後の27年間は、教会のために毎週新しい曲を用意しながら、聖歌隊の指導や学校運営まで担う、いまで言えばプレイングマネージャーのような立場でした。
なぜ死後100年近く「忘れられた」のか
ここが、バッハの経歴でいちばん見落とされがちな部分です。1750年に亡くなったあと、作品の多くは出版されないまま、楽譜だけがケーテンやライプツィヒの図書に眠りました。当時は作品番号(Op.)を付けて自作を世に売り出す習慣も一般的ではなく、バッハ自身も作品を体系的に整理・出版する発想をほとんど持っていません。後年に研究者が整理番号(BWV)を振ったのは、バッハの死から実に200年後のことです。
完全に忘れられていたわけではありません。モーツァルトやベートーヴェンはバッハの楽譜を学習教材として研究し、自身の作曲技法に取り込んでいます。ただしそれは、限られた音楽家の間での“知る人ぞ知る”存在にとどまっていました。一般の聴衆や演奏会の場から、バッハの音楽はほぼ姿を消していたのです。
転機になったのが1829年、作曲家メンデルスゾーンがベルリンで「マタイ受難曲」を復活上演したことでした。バッハの死からおよそ79年。この演奏会をきっかけに出版と再評価が進み、19世紀後半には「音楽の父」という呼び名が定着していきます。つまり“父”という称号は、バッハ本人が獲得したものではなく、100年近く後の音楽界が振り返って与えた評価なのです。
一段掘り下げる:「音楽の父」というラベルを設計しなおす
デザイン思考の言葉で言えば、「音楽の父」は誰かが目的から逆算して設計した肩書きです。19世紀の音楽教育は、和声や対位法を体系立てて教える土台を必要としていました。その土台として最も都合が良かったのが、あらゆる調性・書法を網羅していたバッハの作品群だったのです。つまり“父”という称号は、バッハの偉大さの証明であると同時に、後世が音楽教育というシステムを組み立てるために置いた“起点”でもあります。
演奏する側の実感として、これは今も生きています。私たち奏者にとってバッハの作品は、コンサートで聴く特別な曲である以上に、日々の基礎練習の教材です。ピアニストは平均律クラヴィーア曲集を、弦楽器奏者は無伴奏の組曲やソナタを、指の動きと音楽性を同時に鍛える土台として毎日さらいます。テューバのような金管低音も例外ではなく、無伴奏チェロ組曲を移調した譜面が、音程感覚とフレーズの作り方を確かめる基礎教材として使われることがよくあります。教会や宮廷のための実務的な仕事だった曲が、200年以上経ったいまも、演奏家を育てる仕組みの土台であり続けています。“音楽の父”という呼び名の中身は、この「土台であり続けていること」そのものだと私は捉えています。
よくある質問
Q. バッハの代表曲は何ですか?
A. 教会音楽では「マタイ受難曲」「ロ短調ミサ」、器楽曲では「ブランデンブルク協奏曲」「無伴奏チェロ組曲」「平均律クラヴィーア曲集」、オルガン曲では「トッカータとフーガ ニ短調」などが代表作としてよく挙げられます。
Q. バッハは存命中、有名な作曲家だったのですか?
A. 一部の音楽家の間ではオルガンの名手として知られていましたが、ヨーロッパ規模で名声を得た作曲家ではありませんでした。生涯の大半を、地方の教会や宮廷に仕える実務家として過ごしています。
まとめ
バッハは「音楽の父」という称号を背負って生まれてきたわけではありません。教会と宮廷を渡り歩き、毎週の礼拝のために曲を書き続けた、ひとりの職人音楽家でした。その仕事の厚みが、死後100年近くを経てから“土台”として再発見され、いまの呼び名につながっています。バッハの生涯を全部覚えなくていいのです。まずは年表の一箇所、ライプツィヒでの27年間だけでも覚えておくと、次にマタイ受難曲やブランデンブルク協奏曲を聴くときの景色が変わってくるはずです。
この記事を書いた人
小林悠真(こばやし・ゆうま)/一般社団法人LFコンサート 代表理事/テューバ奏者。広島県三次市出身。九州大学で音響設計と音楽マネジメントを学び、デザイン思考を軸に持つ。演奏する側の実感と“音の仕組み”の両面から、「誰もが音楽にたどり着ける道筋」のリデザインに取り組む。
