音楽の教科書や年表で、モーツァルトとベートーヴェンはいつも背中合わせに載っています。どちらの肖像画も白い巻き毛のかつら姿、活躍したのもほぼ同じ「クラシックの古い時代」。そんなふうに、二人をひとくくりの“似た昔の人”だと思っていませんか。
でも、テューバ奏者としてオーケストラの低音を吹いてきた私から見ると、二人の間には教科書があまり説明してくれない、大きな断絶が一本走っています。それを知っているかどうかで、同じ「交響曲」という言葉の聞こえ方がまったく変わってくるのです。
モーツァルトとベートーヴェン、まず1分だけ
モーツァルト(1756〜1791年)は、オーストリアのザルツブルクに生まれ、宮廷や教会に仕える身として作曲家人生の大半を過ごしました。ベートーヴェン(1770〜1827年)は、モーツァルトが世を去った翌年の1792年、22歳でウィーンに移り住みます。二人の生年は14歳しか離れておらず、実際には21年間、同じヨーロッパの空の下で生きていました。「遠い別々の時代の人」ではなく、「隣り合った時代を、まったく違う空気の中で生きた人」です。
二人を分けたのは、フランス革命という定規
モーツァルトの全盛期は、貴族と教会が音楽家を「雇う側」、作曲家が「雇われる側」という上下関係のはっきりした世界でした。実際モーツァルトは、ザルツブルク大司教コロレドに仕える宮廷音楽家として働いていましたが、1781年にこの職を辞そうとした際、大司教の侍従カール・アルコ伯爵に文字どおり尻を蹴られて追い出されています(本人が父への手紙にそう書き残しています)。作曲家は、王侯貴族の食卓では召使いたちと同じ席に座る立場でした。
ベートーヴェンがウィーンに出てきた1792年は、1789年に始まったフランス革命の熱がヨーロッパ中に広がっていた時期です。故郷ボンの宮廷では、啓蒙思想に理解のあった音楽家ネーフェに学び、「人は生まれではなく才能で評価されるべきだ」という空気を吸って育ちました。象徴的なのが1809年の出来事です。ルドルフ大公・キンスキー侯・ロプコヴィッツ侯という3人の貴族が、他国の宮廷に引き抜かれたくない一心で、ベートーヴェンに生涯にわたる年金契約を結んでいます。作曲家を“雇う”のではなく、自由に作り続けてもらうために“支援する”——モーツァルトの時代には考えにくい関係です。
この空気の変化は作品にも表れています。ベートーヴェンは交響曲第3番《英雄(エロイカ)》を、当初「ボナパルト」という題でナポレオンに捧げるつもりで書いていました。ところが1804年、ナポレオンが皇帝に即位したと知ると、激怒して自筆譜の表紙からその名を消してしまいます。弟子リースの回想によれば「あれもしょせん、ただの人間だったか」と吐き捨てたそうです。献呈曲を書いていたはずの作曲家が、権力者に自分の意思をぶつける——モーツァルトの時代には見られなかった振る舞いです。
低音楽器奏者から見える、もうひとつの断絶
私自身が吹くテューバは、実はベートーヴェンが亡くなった1827年にはまだこの世に存在していません(実用化は1835年、彼の死後)。モーツァルトの時代のオーケストラの土台は、コントラバスとファゴットが控えめに支える程度で、金管はホルンとトランペットが和音を彩る脇役でした。それが交響曲第5番《運命》(1808年)の終楽章になると、ベートーヴェンはオーケストラの交響曲に初めてトロンボーンを持ち込みます。ピッコロやコントラファゴットも加わり、音域の両端が一気に広がりました。単なる編成の拡大ではなく、「もっと大勢に、もっと広い会場で、もっと強い感情を届けたい」という設計そのものの変化です。
物語の作り方も変わった
モーツァルトの短調の傑作(交響曲第40番ト短調や、未完のまま世を去った《レクイエム》)は、悲しみや翳りを描いても古典派(均整と調和を重んじる18世紀後半の様式)らしい整った形に収まっています。一方ベートーヴェンの交響曲第5番は、重く暗いハ短調で始まり、終楽章で輝かしいハ長調へ抜け出る「苦悩を抜けて歓喜へ」という物語を、構造そのもので描きました。1802年、聴力を失う絶望から自ら死を考えたと綴った「ハイリゲンシュタットの遺書」を経てなお書き続けた人だからこそ、“個人が苦しみに打ち勝つ”という筋書きに重みが宿るのだと私は思っています。
1824年初演の交響曲第9番の終楽章では、シラーの詩「歓喜に寄す」に曲をつけ、独唱と合唱までオーケストラに組み込みました。「全人類が兄弟になる」という啓蒙思想の理想を、教会でも宮廷でもなく、切符を買った市民が集まる公開演奏会で歌い上げる——モーツァルトが仕えていた“特定の主家のための音楽”の枠組みでは発想され得なかった規模です。
早見表:暮らしと音楽の違い
項目 | モーツァルト | ベートーヴェン |
|---|---|---|
生きた時代 | フランス革命前の宮廷社会 | 革命後・ナポレオン戦争の時代 |
作曲家の立場 | 大司教に仕える宮廷音楽家(従僕扱い) | 貴族から年金で支援される自由な作曲家 |
音楽の届け先 | 特定の主家・一晩の余興 | 切符を買う不特定多数の市民 |
交響曲の物語 | 均整の中に悲しみが収まる | 苦悩を抜けて歓喜へ突き進む |
編成の広がり | 金管はホルン・トランペットが彩り役 | 初めてトロンボーンが加わり低音が厚みを増す |
一段深く:変わったのは“誰のために作るか”という設計図
音響設計とマネジメントを学んだ人間として、私はこの違いを“設計”の視点で見ています。モーツァルトの受注先は、大司教の食事の余興や貴族の結婚祝いなど、顔の見える一人の依頼主でした。ギャラント様式(当時の宮廷で好まれた洗練された作風)は、その受注生産の“仕様”に合わせた設計です。ベートーヴェンの時代は、切符を買えば誰でも入れる公開演奏会や出版市場が育ち、依頼主が“顔の見えない大勢の市民”へと変わりました。相手が誰か分からないからこそ、「苦しみを乗り越える」「人類はみな兄弟だ」という誰にでも当てはまる物語が必要になるのです。二人の音楽の違いは腕の差である以上に、“誰のために作るか”という設計の与件が、フランス革命を境に総入れ替えになったことの表れだと、私は見ています。
よくある質問
Q. モーツァルトとベートーヴェンは会ったことがあるの?
A. 1787年、16歳のベートーヴェンがウィーンを訪れ、モーツァルトの前で演奏したという話が古くから伝えられています。ただしこれを裏付ける確実な記録は残っておらず、史実として確定はしていません。
Q. 初めて聴き比べるなら、どの曲がいい?
A. モーツァルトなら交響曲第40番ト短調、ベートーヴェンなら交響曲第5番《運命》がおすすめです。同じ短調の交響曲というジャンルで、均整の中に収まる悲しみと、闘って光へ抜け出す物語という、対照的な設計を聴き比べられます。
まとめ
モーツァルトとベートーヴェンを、“似た時代の似た人”としなくていいのです。二人を分けているのは14歳という年齢差ではなく、フランス革命という、ヨーロッパの“誰のために音楽を作るか”を根っこから変えた出来事です。次に二人の交響曲を聴くときは、まず交響曲とは何かを軽くおさらいしたうえで、同じ短調の一曲を聴き比べてみてください。指揮者による解釈の違いも気になった方は、指揮者の本当の役割もあわせてどうぞ。同じ「交響曲」という言葉の中に、まったく違う設計思想が息づいていることに、きっと気づくはずです。
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この記事を書いた人
小林悠真(こばやし・ゆうま)/一般社団法人LFコンサート 代表理事/テューバ奏者。広島県三次市出身。九州大学で音響設計と音楽マネジメントを学び、デザイン思考を軸に持つ。演奏する側の実感と“音の仕組み”の両面から、「誰もが音楽にたどり着ける道筋」のリデザインに取り組む。
