オペラ歌手がマイクなしで大編成のオーケストラに負けない理由は、声が大きいからだけではありません。多くの研究で、訓練された歌手の声には、3kHz前後(文献によって2〜4kHzほどの幅で示されます)の帯域に強い成分があるとされ、これを歌手フォルマントと呼びます。
この帯域は、オーケストラの音のエネルギーが相対的に少ない場所と重なっています。声は、オーケストラの隙間をねらって客席に届いているのです。
歌手フォルマントとは:まず1分だけ
フォルマントとは、声道(のどから唇までの空気の通り道)の共鳴によって強まる周波数の山のことです。母音の違いは、主に低い側の2つの山の位置で決まります。歌手フォルマントは、それより高い帯域に、3つ目以降の山が寄り集まってできる、もう一つの山です。
位置は声種によってずれ、低い声ほど低め、高い声ほど高めに現れると報告されています。ただし数字は研究や歌手によって幅があり、一つの値に決めきれるものではありません。この記事でも、幅を持った範囲のまま扱います。
声の中にある周波数を、順に並べる
周波数の目安を一枚にまとめると、次のようになります。数値は文献で示される範囲のおおよその目安で、人や母音によって変わります。
周波数の帯 | 何があるか |
|---|---|
約80Hz〜1kHz | 歌う音の高さそのもの(基本周波数)。男声の最低域のE2が約82Hz、ソプラノの高いC6が約1047Hz |
数百Hz〜2.5kHz付近 | 母音を決める共鳴(第1、第2フォルマント) |
3kHz前後(文献により約2〜4kHz) | 歌手フォルマント。訓練された声で強く出る帯域 |
3kHz前後 | 人の耳が敏感な帯域。小さな音でも気づきやすい |
歌手フォルマントの帯域は、人の聴覚が敏感な範囲とも重なっています。同じエネルギーでも、この帯域にあるほうが、耳に強く届きます。
オーケストラの音の、どこに隙間があるのか
オーケストラの音は、全体の平均で見ると、低い周波数にエネルギーが偏り、高くなるにつれて弱まる傾向があります。そのため、数kHzの帯域は、フォルティッシモのときでも、相対的に余裕があります。
歌手は、声全体の音量だけでオーケストラと張り合っているわけではありません。3kHz付近に強い成分を重ねることで、全体の音量では負けていても「聞き分けられる」声を作っています。聴覚は音を周波数の帯ごとに聞き分けるので、オーケストラが弱い帯で声が勝っていれば、声は埋もれにくくなります。
一段深く:舞台の側も、歌手を助けている
音響設計を学んだ側から言うと、歌手が一人で戦っているわけではありません。オペラ劇場の多くは、オーケストラピットを舞台より低い位置に設け、客席への直接音を弱めて、歌手の声を前面に出しています。作曲家の側でも、歌の場面では楽器の数や音域を控えるなど、オーケストレーションで声を通す工夫を重ねてきました。
では、女声、特に高いソプラノはどうでしょうか。歌う音の高さが母音を決める共鳴より高くなると、母音そのものが聞き分けにくくなることが知られています。そのため高音域では、歌手が口の開け方を変えて共鳴を音の高さに合わせる工夫をしており、男声の歌手フォルマントとは別の仕組みで声を通していると考えられています。
演奏する側の実感も添えます。私は低音楽器を吹いていますが、大きな楽器の音が、客席ではかえって奥に引っ込んで聞こえることがあります。大きく鳴らすことと、遠くまで届くこと。この二つは別の話で、歌手フォルマントはその違いを教えてくれる、よい例です。
声の種類ごとの音域は、ソプラノ・アルト・テノール・バスの違いにまとめています。男声の低音と中音の関係はテノールとバスの違い、ホールそのものが音を変える話はなぜホールによって音が違うのかが参考になります。
よくある質問
Q. 歌手フォルマントは、生まれつきの才能ですか
A. 発声の訓練で育つとされています。のどの下の空間(喉頭の周辺)の形を整えることで、共鳴がそろいやすくなり、強い成分が出ると説明されています。生まれつきの声量だけでは説明できません。
Q. 女声の歌手にも歌手フォルマントはありますか
A. 研究が主に扱ってきたのは男声で、女声では事情が少し違うとされています。特に高い音域では、歌う音の高さに共鳴を合わせる工夫が重要になり、男声と同じ形の山で説明できるとは限りません。
まとめ
オペラ歌手がマイクなしでオーケストラに負けないのは、3kHz前後の帯域に強い成分を作り、オーケストラの隙間を通しているからです。ピットの位置や作曲家の配慮といった、舞台側の工夫も合わせて働いています。次にオペラを聴くときは、声の「大きさ」ではなく、声の「抜け方」に耳を向けてみてください。
この記事を書いた人
小林悠真(こばやし・ゆうま)/一般社団法人LFコンサート 代表理事/テューバ奏者。広島県三次市出身。九州大学で音響設計と音楽マネジメントを学び、デザイン思考を軸に持つ。演奏する側の実感と“音の仕組み”の両面から、「誰もが音楽にたどり着ける道筋」のリデザインに取り組む。
