「この人はテノール、あの人はバス」——声を聞いた瞬間、音域だけでそう振り分けられている気がしませんか。高い声はテノール、低い声はバス、真ん中がバリトン。ものさしを当てれば一発で分かる、そんなイメージがあります。でも合唱やオペラの本番でこの3つの声が重なり合うのを聴くたびに、私はその分け方のもろさを感じます。
低音を吹く奏者としてオーケストラピットの近くに座る立場から見ると、声の境目は音域という一本の線では引けません。
テノール・バリトン・バスとは:まず1分だけ
この3つは、男声を高いほうから低いほうへ大きく3段階に分けた呼び名です。テノールがいちばん高く、バリトンが中間、バスがいちばん低い——ここまでは間違っていません。声の分類そのものをもう少し広く知りたい方はオペラの声種とはもあわせてどうぞ。この3区分を押さえておくだけでも、合唱やオペラの配役表がぐっと読みやすくなります。
音域は驚くほど重なっている
「テノールは高い、バスは低い」と聞くと、3つの声域がきれいに積み重なっている図を思い浮かべがちです。でも実際の音域はかなり重なっています。テノールの低いほうの音とバリトンの高いほうの音は、多くの場合ほとんど同じ高さです。バリトンとバスの間も同様です。
下の表は、それぞれのおおよその音域と声質、オペラでの役どころの型をまとめたものです。個人差や作品ごとの指定の幅があるので、あくまで目安として見てください。
声種 | おおよその音域 | 声質 | オペラでの役の型 | 代表的な役 |
|---|---|---|---|---|
テノール | おおよそド(C3)〜ラ(A4)。輝かしい高音を得意とする歌手はさらに上まで出す | 明るく張りのある響き。換声点(地声から裏声へ切り替わる境目)が高い位置にある | 主人公・恋する青年 | ロドルフォ「ラ・ボエーム」、ドン・ホセ「カルメン」 |
バリトン | おおよそラ(A2)〜ラ(A4)。テノールともバスとも音域が重なる | 太く安定した響き。中音域に厚みが出やすい | 対立する側・ライバル、あるいは苦悩する父 | エスカミーリョ「カルメン」、ジョルジョ・ジェルモン「椿姫」 |
バス | おおよそミ(E2)〜ミ(E4)。低いほうはさらに沈む歌手もいる | 深く沈む響き。換声点が低い位置にある | 父・王・僧侶といった重みのある役 | ザラストロ「魔笛」、ラムフィス「アイーダ」 |
この重なりを見ると、境目を決めているのは音域の高低そのものではないと分かります。決め手は換声点の位置と声質です。同じ高さの音を出していても、地声のまま楽に出せる歌手はバリトン寄り、裏声に近い響きへ切り替わる歌手はテノール寄りに分類されます。声域が近い歌手同士が違う声種を名乗っているのは、この換声点の違いによるものです。
役どころの型にも理由があります。オペラの多くは、恋愛や対立を軸にした物語です。主役の恋を歌い上げるには、伸びやかで通る高音が向いています。だから、恋する主人公はテノールに書かれることが多いのです。
ビゼー「カルメン」徹底解説で見たとおり、主人公ドン・ホセはテノール、彼のライバルである闘牛士エスカミーリョはバリトンで書かれています。同じ図式はヴェルディ「椿姫」徹底解説のジョルジョ・ジェルモンにも見られます。主人公アルフレードの恋を引き裂こうとする父親は、対立する側としてバリトンで書かれているのです。
一段深く:なぜこの3区分になったのか
この配役の型を、目的から設計しなおしてみます。作曲家は声を先に決めてから物語を書いたわけではありません。むしろ逆で、物語の役割に声の性質を当てはめていった結果として、テノール=主人公、バリトン=対立、バス=父や王という型が積み重なっていったと私は見ています。輝く高音は若さや情熱の記号になり、深く沈む低音は権威や重みの記号になります。声そのものが、キャラクターの設計図の一部なのです。
ピットに近い場所で低音楽器を吹く立場から、もうひとつ付け加えたいことがあります。バスの最低音域は、オーケストラのコントラバスやファゴット、テューバといった低音楽器とほぼ同じ帯域に入ります。この帯域を伴奏側が厚く鳴らしすぎると、歌詞は客席まで届きません。指揮者やオーケストラの側が伴奏を薄くして道をあけて初めて、バス歌手の低い声が聴こえてきます。声の分類は声だけの話に見えて、じつは伴奏をどう設計するかという、ピットの側の問題でもあるのです。
よくある質問
Q. バリトンは音域が中途半端な声種なの?
A. いいえ、独立した声種です。テノールとバスの中間に位置するからこそ、太く安定した響きと表現の幅の広さが持ち味になります。オペラでは主人公の相棒や、複雑な内面を抱える役に好んで書かれます。
Q. 合唱でもテノール・バリトン・バスの3区分を使う?
A. 合唱では一般に、男声をテノールとバス(ベースとも)の2パートに分けることが多いです。バリトンの音域を持つ歌い手は、曲や団の編成によって、テノールパートとバスパートのどちらかに割り振られます。
まとめ
テノール・バリトン・バスの境目は、音域という一本のものさしでは引けません。決め手は換声点の位置と声質、そしてオペラでは物語の中でその声に託された役割です。次に配役表を目にしたら、音域の高い低いだけでなく、その声がどんな役どころを担っているかにも目を向けてみてください。オペラの声種とはとあわせて読むと、声の世界がもう少し立体的に見えてくるはずです。
この記事を書いた人
小林悠真(こばやし・ゆうま)/一般社団法人LFコンサート 代表理事/テューバ奏者。広島県三次市出身。九州大学で音響設計と音楽マネジメントを学び、デザイン思考を軸に持つ。演奏する側の実感と“音の仕組み”の両面から、「誰もが音楽にたどり着ける道筋」のリデザインに取り組む。
