マーラーと聞くと、演奏に1時間以上かかる長い交響曲を思い浮かべる人が多いと思います。でも、生きているあいだのマーラーは、作曲家である前に、当時を代表する指揮者の一人として知られた人でした。交響曲を書けたのは、主に夏の休暇のあいだだけです。
テューバ奏者として、つまり指揮者の棒を見て吹く側からマーラーの楽譜を開くと、指揮台に立つ人が書いた楽譜だと感じる場面がいくつもあります。その感覚の出どころを、生涯の順番でたどってみます。
マーラーはどんな人か:まず1分だけ
グスタフ・マーラー(1860〜1911)は、ボヘミア(現在のチェコ)のカリシュチェ村で、ユダヤ系の家庭に生まれました。15歳でウィーン音楽院に入り、1880年に指揮者として働き始めます。地方の劇場から順に大きな歌劇場へ移り、1897年からの10年間はウィーン宮廷歌劇場(いまのウィーン国立歌劇場)の総監督を務めました。最後の数年は、ニューヨークで指揮をしています。
作品は、ほぼ交響曲と歌曲だけです。しかもこの二つは深く結びついていて、自分の歌曲を交響曲の楽章に作り直すこともありました。番号の付いた交響曲は第9番まで完成し、第10番は書きかけのまま残りました。
年表で見る:指揮の仕事と、夏の作曲
年 | 指揮の仕事 | 作曲 |
|---|---|---|
1880 | 温泉町バート・ハルの小さな劇場で、オペレッタを指揮する(最初の仕事) | カンタータ「嘆きの歌」を書き上げる |
1883〜85 | カッセルの劇場 | ― |
1885〜86 | プラハの劇場。初めてベートーヴェンの第九を指揮する | ― |
1886〜88 | ライプツィヒの歌劇場 | 交響曲第1番を書く |
1888〜91 | ブダペストの王立歌劇場 | 1889年、第1番を自分の指揮で初演する |
1891〜97 | ハンブルク市立劇場の首席指揮者。6年で744公演 | 1893年から、夏を作曲にあてる |
1897〜1907 | ウィーン宮廷歌劇場の総監督 | 第3番から第6番までを、自分の指揮で初演する |
1907 | 長女マリアを亡くし、心臓の病気がわかる。10月、歌劇場で最後の指揮をする | ― |
1908〜11 | ニューヨークのメトロポリタン歌劇場、のちにニューヨーク・フィル | 1908年の夏からトーブラッハの作曲小屋を使い、「大地の歌」を書く。続いて第9番、第10番に取り組む |
1911 | 2月21日、ニューヨークの演奏会が最後の指揮になる。5月18日、ウィーンで亡くなる | ― |
左右の列を見比べると、作曲が“本業の合間”の仕事だったことがよくわかります。ハンブルクの6年間で744公演は、1年に120回を超える計算です。1893年からは夏をまるごと作曲にあて、オーストリアのアッター湖畔シュタインバッハ、ヴェルター湖畔のマイアーニック、そして晩年はトーブラッハ(現在はイタリアのドッビアーコ)に建てた小さな作曲小屋にこもりました。
シーズン中は歌劇場で指揮をし、夏に書いた交響曲を、のちのシーズンに自分の指揮で初演します。この繰り返しが、マーラーの生涯の基本の形でした。
交響曲は、ほとんど自分で初演した
作品 | 全曲の初演 | 指揮 |
|---|---|---|
第1番 | 1889年 ブダペスト | マーラー |
第2番「復活」 | 1895年 ベルリン | マーラー |
第3番 | 1902年 クレーフェルト | マーラー |
第4番 | 1901年 ミュンヘン | マーラー |
第5番 | 1904年 ケルン | マーラー |
第6番 | 1906年 エッセン | マーラー |
第7番 | 1908年 プラハ | マーラー |
第8番 | 1910年 ミュンヘン | マーラー |
大地の歌 | 1911年 ミュンヘン(没後) | ブルーノ・ワルター |
第9番 | 1912年 ウィーン(没後) | ブルーノ・ワルター |
第10番 | 未完 | ― |
第8番までは、すべて作曲者自身が指揮台に立って初演しました。第3番は演奏に1時間半以上かかるマーラー最長の曲で、1896年に書き上げてから全曲の初演まで6年かかり、第4番の初演より後になりました。一方、晩年の「大地の歌」と第9番は、本人が一度も実際の音で聴かないまま、亡くなったあとに指揮者ブルーノ・ワルターが初演しています。
初演の反応も一様ではありません。第1番のブダペスト初演では、前半の楽章のあとは熱心だった客席が、終楽章のあとには“はっきりと聞こえる反対”に変わったと、当時の批評が伝えています。反対に、1910年の第8番のミュンヘン初演は、生前最大の成功だったと伝記作家に評されています。
指揮者マーラーは何をしたのか
ウィーン宮廷歌劇場の10年間で、新しく上演したオペラは33作。ほかに55の演目を、新しい演出や全面的な作り直しで舞台にかけました。画家アルフレート・ロラーを舞台美術に迎え、ベートーヴェンの「フィデリオ」やモーツァルトの「フィガロの結婚」を新しい舞台で上演しています。この二人の作曲家の違いは、モーツァルトとベートーヴェンを比べた記事で整理しました。
その一方で、厳しい練習と独裁的な振る舞いは、歌手からも楽員からも反発を買いました。楽員を猛獣使いのように扱った、とまで言われています。反ユダヤ主義の新聞からの攻撃も、在任中ずっと続きました。この職にはもともとユダヤ人を就けない壁があり、マーラーは就任前の1897年2月にカトリックに改宗しています。実利のための改宗だった可能性を指摘する見方もあります。
一段深く:指揮者が書いた楽譜を、演奏する側から読む
国際グスタフ・マーラー協会は、マーラーにとって作曲と指揮は切り離せないものだった、と紹介しています。指揮をするなかで自作の楽譜に手を入れ、指示を細かくしていきました。その跡が、数多くの修正として楽譜に残っているのです。実際、第2番「復活」は1895年の初演のあとも、1910年まで手直しが続きました。
演奏する側から見ると、その跡は楽譜の“言葉”の多さに表れます。強弱記号だけでなく、「決して急がずに」「遠くへ」といったドイツ語の指示が、楽譜のあちこちに書き込まれています。リハーサルで指揮者が口で伝えることを、先に紙へ書いておいたような指示です。
テューバ奏者として見逃せないのは、ほかの作曲家の作品への手入れです。マーラーはベートーヴェンの第九を演奏するとき、ホルンを4本足して8本にし、テューバを1本加えた自分の版を使いました。テューバは、ベートーヴェンが耳の病を抱えながら第九を書いた時代には、まだ生まれていない楽器です。1900年にウィーン・フィルとこの版を演奏したときは、批評家から「ほとんど原形をとどめない」「偽造だ」と酷評され、マーラーは説明の文章を出して、4日後にもう一度演奏しました。
音を足すか、作曲者が書いたとおりに演奏するか。この議論はいまも決着していません。ただ、低音の側から見ると、マーラーの手入れは“新しく使えるようになった楽器で、響きの底を組み直す”試みに見えます。自分の交響曲でも、第1番・第2番・第5番で、テューバを1本、金管のいちばん下に置きました。たった1本で、大編成の金管の底を受け持つ書き方です。
いま、マーラーを聴くなら
この秋は、国内外のオーケストラがマーラーの交響曲を続けて取り上げています。LF CLASSIC が9月以降に集めたニュースだけでも、第2番「復活」と第3番の公演や録音の話題が、それぞれ10本を超えました。最新のニュースは、LF CLASSIC のマーラーのページにまとめています。
はじめての1曲には、作曲者自身が初演した交響曲第2番「復活」をおすすめします。終楽章で舞台の外から響く金管と、そのあとにごく弱く入る合唱の聴きどころは、マーラー「復活」徹底解説にまとめました。
よくある質問
Q. マーラーは指揮者として、どのくらい評価されていたのですか
A. ハンブルクでチャイコフスキーの歌劇「エフゲニー・オネーギン」のドイツ初演を指揮したとき、作曲者本人がその指揮を「驚くべき」とたたえ、のちに手紙で「まさしく天才」と書いています。亡くなったときのロンドンの「タイムズ」紙の追悼記事も、指揮の腕前はハンス・リヒター以外の誰よりも上だった、と評しました。
Q. 「大地の歌」は交響曲なのですか
A. 国際グスタフ・マーラー協会は「大地の歌」を、アルトとテノールの独唱と大管弦楽のための交響曲として紹介しています。交響曲の性格を持つ作品ですが、マーラーは番号を付けませんでした。番号の付いた交響曲は第1番から第9番までで、第10番はアダージョの楽章を仕上げ、残る4つの楽章を下書きしたところで終わっています。
まとめ
マーラーは、歌劇場の指揮者として働きながら、夏のあいだに交響曲を書き、その多くを自分で初演した人でした。楽譜に残る細かな言葉や、何年も重ねた手直しは、指揮台に立ち続けた人の仕事の跡です。全部の交響曲を順番に聴かなくて大丈夫です。まずは1曲、作曲者自身が指揮台で初めて鳴らした場面を思い浮かべながら聴いてみてください。
この記事を書いた人
小林悠真(こばやし・ゆうま)/一般社団法人LFコンサート 代表理事/テューバ奏者。広島県三次市出身。九州大学で音響設計と音楽マネジメントを学び、デザイン思考を軸に持つ。演奏する側の実感と“音の仕組み”の両面から、「誰もが音楽にたどり着ける道筋」のリデザインに取り組む。
